看護師の道を示すナイチンゲール

1820年、フローレンス・ナイチンゲールは、イギリス人の両親を持ちます。
彼女は、フランス語やギリシャ語、イタリア語、ラテン語に長けていました。そのほか、天文学や数学、経済学といった、多くの学問を姉と共に修めていたのです。大変裕福な家柄に生まれ、このように恵まれた家庭環境で育ってきました。しかし、ある日慈善授業で訪問した貧しい農村の惨状を目の当たりにし、一生を人々に奉仕する仕事に就きたいと強く願うようになります。
縁あってドイツの学園付き施設で働くことができ、本格的に看護の道に進み始めました。当時、看護師は病人の世話をする召使いとみなされていたため、母や姉は就職に反対します。彼女はそれを振り切って、就職を決断したのです。
クリミア戦争では負傷者が続出し、ナイチンゲールは昼夜を問わず、どのような人にも分け隔てなく看護を行います。その際、病院内の衛生管理を徹底的に行なうことで、死亡率が格段に下がったのです。そのため、彼女は多くの人から「クリミアの天使」と呼ばれました。後世になり、看護師のことを「白衣の天使」と呼ぶようになったのは、ナイチンゲールに由来するのです。
このように、彼女は病院建築などでも類まれなる才能を発揮し、そのうえ戦争でのさまざまな統計を基に医療衛生改革も行いました。彼女の生涯は看護だけではなく、社会教育や統計学などのさまざまな分野で、後世に残る偉業をなしえたと言っても過言ではありません。そのことから、彼女は「近代看護教育の母」とも呼ばれています。